『デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか』(哲学のエッセンス)
現代哲学に飛びつくのは避けてきたのですが、本書は良書だと思います。
「差延」や「脱構築」という言葉が、存在論・認識論の微分的な意味での極限に関わっているのだ、ということがよく分かりました。
それならば、ということで『デリダ』(人と思想)も手にとってみましたが、こちらは気に入りません。
デリダ本人が問題にしたことの本質を理解するには、役に立ちそうにありません。
例えば、「差延」という言葉を最も定義的に説明するはずの部分で、次のように書かれています。
「開口」は現前と不在の境界にある「開け」であり、その「隔たり」を現前から考えることはできない。 ・・・ 記号の現前性は既に過去を含み、未来によって穿たれているが、そのような事態を生じさせるものこそが差延である。(『デリダ』(人と思想))
これは、借り物の言葉を使って語ることしかできない人の文章ではないでしょうか。
“現代哲学”本では、こういうことがほとんどなので、避けざるを得ないのです。
一方、タイトルにあげた『デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか』(哲学のエッセンス)は、最初から最後まで著者の言葉で語られています。
もしかしたらデリダの哲学とはずれているのかもしれませんが、著者の理解したデリダの哲学の内容が、よく分かるのです。それをさらに私の言葉で説明してみます。
まず、存在しているものを認識する行為を、書かれたものを読み取る行為に類推的にたとえます。
書かれたものを視覚的に受け取ることができたとしても、意味を理解するのに必要な背景知識が他にも沢山あります。
また、視覚的なものが書かれたものの全てでもありませんし、視覚によって認識すること自体によって、書かれたものの意味や読み取る者の状態が変化してしまいます。
このように突き詰めて行けば、存在そのものにたどり着くことは決してできず、存在にやや遅れて立ち上がる何ものかにしかたどり着けないことが、明らかになってきます。その何ものかと存在そのものとの違いという、差異の中でも特別な「差異」を表現する言葉として、「差延」という言葉が使われているのです。
このような短い表現は、私の不正確な理解を語る言葉としてすら、まだまだ不十分です。
しかし、「差延」という言葉が、存在論と認識論とを“言葉にできない”地点にまで突き詰めた結果として捻出されたものだ、という経過が分かるのではないでしょうか。
そういう思考の経過を想像してみることは、「現前と不在の境界」(人と思想)などと言うよりも、ずっと先まで思考を深める助けになることでしょう。
とにかく、『デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか』(哲学のエッセンス)の方は、現代哲学にも毛嫌いせずに当たってみよう、と思うきっかけになりました。
ちなみに、「差延」という訳語の原語は、「difference(差異)」という言葉をもじった「differance」です。
“そのもの”からの遅延という意味を含めた「差延」という訳語が定着したのだそうです。
デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
- 作者: 斎藤 慶典
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2006/09
- メディア: 単行本
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