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『ヒロシマ・ノート』(大江健三郎)

大江健三郎さんが、1963年の原水爆禁止世界大会の取材をきっかけにして書いた連作ルポ。
核兵器の威力ではなく、核兵器の悲惨さを、という言葉が心に残ります。

核兵器の悲惨さとは、遺伝子を深く傷つけるが故に、何十年も経ってから原爆症を発症したり、もしかしたら子孫にまで遺伝的な影響があるのではないかと不安になる、ということに因ります。
1970年代から80年代にかけて日本で教育を受けた人間としては、その悲惨さをある程度は学んだつもりですが、それが必ずしも当たり前なのではなく、地道な活動を続けた幾人かの個人のおかげであることが、本書を読めば分かります。
例えば、原爆症専門の病院を経営し続けた医者がいなければ、原爆による人体への長期的な影響が十分に認識されるのがかなり遅れたことでしょう。戦後まもなくの米国調査団による公式発表では、原爆による長期的な影響はない、とされていたのですから。

そのような悲惨さは、被爆者の側からも明らかにされます。
要約では本書の真意が伝わらないでしょうが、家族も奪われて自らも原爆症に苦しんでいる人などを、あえて「それでもなお自殺しない人々」と呼び、最も威厳ある人々とも呼びます。
そして、彼らの威厳を見失わないように心がけることが、自らを恥の感覚から守る手だてだ、とします。

一方で、広島の人々の威厳を見ようともしない人々が多いことも分かります。
まず、本書のきっかけとなった原水禁世界大会が、派閥争いのために分裂してしまうこと。
翌年の1964年には中国が核保有国となること。
また、被爆者に向かって、原爆を落とせば朝鮮戦争が早く集結すると予想されるがどう思うか? 等という無神経な質問をする米国人記者。

このような状況は、2007年に至るまで改善されていません。
北朝鮮が核保有国となり、「(原爆投下は)しょうがない」と防衛大臣が発言し、テレビの討論番組に出演する知日米国人たちは、原爆投下が戦争終結を早めるための人道的戦術であった、と無邪気に信じているらしい様子を見せています。
このような無神経さは、全て、核兵器を威力の大きさからしか見ていないことに因るのでしょう。

ヒロシマの悲惨さを全人類が認識して反省するには、少なくとも日本の総意としてまとまったメッセージを、世界に向けて発信することが必要だと思います。
そのためには、大江さんが示した、威力と悲惨さの区別が重要な視点ではないでしょうか。
悲惨さを訴えているつもりが威力の大きさとしてしか受け取られていない、というような場合もありそうなので、発信する側もよく考えてみるべきかもしれません。

ちなみに、本書で述べられている、威厳ある国の姿は、「原水爆を所有しうる力をもちながら、しかもそれを所有しない国」です。1963年までの中国を想定した言葉のようですが、2007年の日本の姿でもあります。憲法9条の議論に、こういう項目を加えてもいいんじゃないでしょうか。

ヒロシマ・ノート (岩波新書)

ヒロシマ・ノート (岩波新書)

  • 作者: 大江 健三郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1965/06
  • メディア: 新書


2007-09-06 02:59  nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0)  共通テーマ: [最近読んだ本]

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コメント 2

もう、『人道的』の意味がわからないですね。
TVの討論番組で、むやみに戦争や核を反対する人たちは、浅はかで幼稚だと馬鹿にされているようですね。
反対するならば別の手段を考えろ、ないくせに反対ばっかり唱えるな、と。
自分の命に危険極まりないものなんて、生き物として拒絶したいと思うのは当然だと思うのですが。
by (2007-09-07 00:00) 

plant

カオルさん コメントありがとうございます。
ほんとうに、“現実派”と“理想派”の応酬にはイライラすることがあります。
環境保護も似たような状況でしたが、この数年で劇的な変化がありました。平和維持についても希望を持ちたいですね。
by plant (2007-09-08 04:56) 

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